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Sunday, December 4

焦点を絞る


復興支援の仕事を選んだ理由のひとつはそのダイナミズムにある。
スピード感とか、規模感とか、ある程度のコンセンサスがそろうと、どんどん動いていく実感。
緊急性が高いものだから、それなりにニーズの充足感があって、手ごたえもある。
今年は災害復興と紛争復興の二つをやって、東日本大震災のフォローも業務ですることになった。

なかなか優先順位をつけて仕事ができないのも、プライベートのあれこれも決められないのも、焦点が定まっていないからであろう。欲張りすぎて、あれもこれも悩んでいるうちに、時間ばかり過ぎていく。

東日本大震災は、緊急フェーズを抜けて、復興フェーズに入った。
復興計画が遅れている。民間や企業は待ったなし。政府はスピード感を持って対処しなければならない。未曾有の災害、マニュアルもない。過去の災害復興経験の教訓はある。まったく同じ復旧はない。元には戻れない。新しい、けれどそれぞれが将来を見通せるような、共通のビジョン、道筋が欲しい。奇抜でも妙案でもなくてもいい。それぞれの声を拾いつつ、それぞれのspaceがあるような。
国交省の大臣は、災害直後にコスト無視でできる限りの緊急支援をやるように指示した。その結果、いちはやく道路が復旧し、支援物資が届いた。次の復興支援のアクションにも期待している。

今年、新しいカメラレンズを買った。35㎜単焦点ニコンレンズ。
シンプルで軽い。ファインダーを覗きながらボケ味と構成の収まりがいいところを探しているところ。

Tuesday, January 25

RONDINO


うちの職場は毎月が異動。それも本部内はもとより、地方に、海外に。たまに帰ってくる同期が、3年ぶりとか、前にお世話になった人に再会するのが5年ぶりとか、おっかねー職場だ。なので、いつも久しぶり、久しぶりだね、呑みに行こうか、これごく普通。。こんなことが年中おきる。今月は年末年始で日本に帰ってきた人も多いので、久しぶりも多い気がする。

おもむろに机の周りを片付け始めた上司。就業時間を過ぎての作業開始、2日目。書類の山を片付け、引き出しの中を整理し、余分なクリップを返却する。何かあったんですか、と聞くと、異動だという。いや、冗談で、着任1年目の片付けらしいが、なんともなタイミング。釣られて部下も片付けしてみたり。

早い人は1年半で次の部署に移っていく人もいるし、長い人で5年、6年。平均は3年ぐらいか。自分のこれまでの平均は2年。アフガンの2年4ヶ月が最長だった。今の部署はすっかり1年4ヶ月。

ちょうど去年の今頃から準備を始めたスリランカのプロジェクトも折り返し地点。いまだ道半ば。ハイチはだいぶ落ち着いてきた。復興支援のドタバタで、毎日あたふた動いているうちにあっという間に時間が経ってしまう。

TVを買おうと思って、1年4ヶ月。冬山に登りたくて1年4ヵ月、ロンドンの宿題を残したまま1年4ヶ月。そういや姪が11月に生まれてきてくれた。かわいい。実にかわいい。すっかり伯父さんである。

まだまだやれること、やらなきゃならいことはたくさんあるのだと、ハイチ以来ガタガタだった仕事のペース・クオリティ、12月のガーナは悲惨だった。いい加減、ねじ巻いて、ちゃんと考えながら進めないとなぁ。。

12月、1月と相次いで親しい友人が海外に飛び立っていった。負けないぞっと。

Sunday, May 9

若葉のころ - 天城の記憶



ゴールデンウィークになると、実家が引っ越して間もない頃、自宅から桶ヶ谷沼まで父と妹で往復したことを思い出す。途中、見附の天神様をお参りし、沼では地元にしかいないベッコウトンボを見た。帰り道、路線バスに乗る乗らないではぐらからされながら、ツツジ公園により、どこかの古墳遺跡を発見し、かぶと塚公園では遊ぶ余力も無かったが、用水路沿いに南下して、結局、自宅まで歩いて帰った。

どれだけ歩いたかは覚えていないが、とにかく遠い道のりだった。まだ父が30代の頃である。

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今年還暦を迎える父に、どこか行きたいかと尋ねたところ、伊豆・天城への旅行を提案してきた。

天城峠を登ったところに僕の名を付けたくなった木(樹)があり、その先に妹の名を付けたくなった香り(薫)のいい木があり、その先で母に出会ったという。その先に、朝陽(暁)が美しいと想像した見晴らしの良い場所があり、弟の名もそこからきたと言う。

弟の話まで聞いて、そこまでは冗談だろうと思ったが、なるほど、天城峠から連想したとすれば、歳が離れて生まれた弟とはいえ、それは意味も血もつながっている。

その当時、バスに忘れたうっかりものの母の荷物を取りに戻ったという父。浪人・留年生とは付き合うつもりがなかったという母。未だに二人はよく喧嘩するようだが、さて、なんと表現したら良いものか。昔は何度も一緒に登ったという。

ん十年ぶりの久しぶりの登山だと言うので、すっかり油断していた。が、当日計画を開けてみれば、天城峠入り口から万二郎岳を越えてゴルフ場まで抜ける、コースタイム8時間の伊豆山稜線縦走コース。・・・・よくデートと言っては歩き周り続けて相方を泣かせたこともあったが、血は争えない。。

父は登山靴を履いてきたが、弟は底の薄いスニーカーだった。加えて3人ともジーンズ。途中すれ違うの登山者と見比べても、あまりに軽装備。コンビニで食料を買い込み、八丁池で母と合流して4人で登る。

その昔、両親がお世話になったという人が銅像になっていて、登山口の脇に立っていた。
山は少し痩せていて、木がひっくり返っているのが散見された。手を入れすぎているように思う。

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で、その樹はまだ立っていて、根を大きく張り巡らせていた。なんでまたこの木が父の心に留まったのだろうとは思ったが、まだ立っていた。それだけで十分だった。

家族での旅行は実に4年ぶりだった。身重の妹夫婦とは降り口で合流し、最後はみんなでゴールした。なんという大団円。

スニーカーでだった自分の靴には、穴が開いていた。
翌朝、母はイチゴ狩りにでかけ、父も仕事に出たと言う。
父はひざの痛みを隠していたらしいが、らしいと言えばらしい。
まだまだ若いなぁと思った。


いつか自分の子どもを連れて、ここを訪れる日がくるのだろう。たぶん、間違いなく。
今年もツツジが綺麗に咲いている。


写真 上: 登山口入り口(天城トンネル入り口バス停付近)
写真 下: 八丁池にて


Saturday, May 1

夜風の調べ - スリランカ



スリランカ本島から道の両端を海に挟まれた約3kmのコーズウェイを駆け抜け、緩く弧を描いた新しくできたばかりの橋を渡ると、インドに手が触れそうな、もっとも近い街、マナー(Mannar)に着く。

2010年3月に完成したばかりのコーズウェイとマナー橋は、日本政府の支援で整備された。

4月第3週目は、スリランカのお正月。第一週に行われた総選挙も無事に終わり、2期目のラジャパクサ政権は盤石の態勢を整えることになりそうだ。

周りを海に囲まれたマナーはいつも風がある。ひどい夕立のあった今夜は少しひんやりした空気が流れていく。心地良い。窓の外から大きなスピーカー音が一緒に流れ込んできた。静かな街にちょっと場違いのような音を立てている。どこかで祭りごとのイベントが行われているようだ。

さっき急に若い青年が二人きて、今夜の客が増えたからと、部屋が欲しいという。結局、2つあった方の1つのベットを持っていった。もともと不釣合いに広い部屋に2つのベットがあったようなものだから、余計間が抜けた感じになった。

部屋のエアコンは壊れていて、天井ファンが低い回転音をたてて回っている。風呂は水シャワーだけ。夕食はいつものカレーで、今日は檸檬、生姜、青唐辛子と椰子の実を混ぜたスパイスが添えられていた。やっぱり辛いけれど、食べられないヒリヒリする辛さでもない。暑さと辛さで毎日汗だくになっている。

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スリランカ政府と四半世紀以上も激しく対立したタミルイーラム解放のトラ(LTTE)が陥落してから一年経ったスリランカ北部州。賑やかさを取り戻し始めていて、去る1月に来たときよりも人の往来は激しく、道路沿いの市場にはたくさんのモノがあふれている。国道沿いには大型看板が増えていて、民間資本の投資意欲を感じさせる。

旧LTTE勢力に警戒し、未だ要所要所に塹壕を残して展開している軍人も、緊張感が無く、手を振ると振り返してきた。検問所では、職務質問の変わりに、家族構成やら婚姻状況を聞かれる。独身と
聞いて驚いた顔をされてもどうしようもなく、苦笑いで返す。

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さっきのスピーカーは、司会が客の笑いを取ろうしているのが聞こえる。窓の外をみれば、星がずいぶんと綺麗だ。月の光に街がうっすらと青白く照らされている。ほとんどの家の電気がついていないのが分かる。どこで夜祭りが行われているのだろう。一階からは子供の泣き声が響いてきた。

遠くのスピーカーも、平和を取り戻した人たちの歓喜と思えば、また印象が異なる。
夕立の大きな雷鳴に驚いていると、「夜中に飛び交う砲弾に比べたらなんてことはない」と政府職員が笑っていたのを思い出した。ここは昨年まで夜間外出禁止令が出ていたところだ。

マナー橋には、平和を灯す明りとして希望をこめて設計された水銀灯が設置されている。
設計当時、橋梁の安全対策をかねて持ち出されたアイデアであったが、建設予算削減のために、橋の両側につける計画を片側に変更した。

いまだ街の灯りの少ないマナー。今では一番のデートスポットとして、男女が集う場所になっている…と聞いたが、シャイなスリランカ人はホントはそんな姿を見せない。実際行ってみると、家族連れや若者たちでにぎわっていた。芝生が植えられた法面は、子供たちの滑り台になっている。笑顔と歓声があふれている。

遠くのスピーカーはいつの間にか民族音楽らしい、太鼓の音と女性の高い声に変わっていた。


写真上: 夕暮れ時のマナー橋にて。多くの見物者で、違法駐車ならぬ違法駐輪が発生していた。
写真下: 紛争中退避していた村に住民たちが帰ってきた。子供たちの歓声が響いていた。

Thursday, April 15

真実と事実


事実をいくら積み重ねても真実にたどり着くことは難しい。
逆にいくら真実を説明し尽くしても、事実が示すことを明らかにすることも難しい。

真実と事実は、X-Yグラフで示せば限りなく近似するけれども、一致することはない。
・・・というのは言葉のまやかしだろうか。

人は客観的になろうとする。事実を積み重ねて、科学的になろうとする。
でも、それらを試みる人の意識は、自分自身の主観からは逃れられない。

判断をくだすこと自体が、主観なのだから。

自分の判断がこれまでの正しい選択の積み重ねだとしたら、今の自分は違っていたか?
いや、きっとそんな大それた人間になっていないし、結局落ち着くところに落ち着いているのだろう。

いっぱいデータを並べて、条件を並べて、アプローチを検討して、リソースを部分最適化して、
担当するプロジェクトは、そして自分自身も、どうしたら満足のいく選択と決定ができるのだろう。


写真:「しながわ水族館」にて

Sunday, April 11

さくらさくら



今年は寒の戻りが長かったせいか、花曇、花冷えの影響もあって、咲き始めから散りゆくところまで長く楽しむことができた。

職場の近くには千鳥が淵に靖国神社。ちょっとその先に足を延ばせば、市ヶ谷から飯田橋にかけての中央・総武線沿いの桜並木。靖国神社と法政大学近くは、サラリーマンと学生の競宴と言ったところか、自分で照明を持ち込んで演出しているあたり、どこかのバラエティー番組の撮影かと思ったくらいだ。

久しぶりに大学の桜も鑑賞。正門から入って大学裏口を抜けて、野川公園へ。そこから天文台まで歩いて、バスに乗り換え、井の頭公園を歩く。
海外で見たアーモンドの花も綺麗だったけれど、こんなに咲きっぷりのいい桜、見ごたえ十分。ほのかな匂いも演出のアクセント。

新芽や若葉が、また新しい季節の訪れを期待させてくれる。


写真 上: 井の頭公園
写真 下: 野川公園


Sunday, March 28

ねがうということ


かたちないもの、かたちあるもの、こわれるもの、ひきつがれるもの、あたらしくうまれるもの、かわるもの、やめること、つづけること、とぎれること、むすぶこと、ひきつけること、やりとげること、かなわないもの、かなわうもの。
ミシガンで留学していたとき、停滞していた自分を変えたのは、一枚の自動車免許証の取得だった。きっかけはきっとほんのちょっとのことでいい。そこに踏み出すために、大きな勇気も、大きな理由もいらない、ただ身体をちょっと前に傾けてみれば、足が一歩、前にでるだろう。その一歩で十分なんだと思う。意外と自分は頑丈なんだと、思ったより人生なんとかなるものだと。いまはなかなかそれが見えないかも知れないけれど。

Sunday, March 1

結婚式

S家の長男、Sと申します。
本日、妹よりこのような依頼を受けましたので、当人の略歴のご紹介をさせて頂きます。

S Kは、 19xx年3月xx日、 S家の長女としてA県に産まれ、幼少から高校まではJリーグ・サッカーチームのジュビロ磐田の本拠地がある場所として有名な、静岡県磐田郡で育ちました。

199x年、静岡県立○○高等学校普通科を卒業、
200x年、○○大学 基礎工学部 電子基礎工学科 を卒業しました。

大学卒業以来、一貫して、K県E市にある「F株式会社」に勤務しています。同社は皆さんが普段よりお使いになられるであろうC機で大変有名な会社です。現在は同社のS開発部にてF機のソフトウェアの開発に携わっています。

Kは、幼いころから身体が小さく弱かったこともあり、病気になったり、またすぐに泣くことで、父や母をよく困らせていました。
いつから泣かなくなったんでしょうね。

身体が小さい割に負けん気は強く、普段より兄弟げんかは絶えず、弟のAが5歳の時に産まれてからは兄・弟の両面に好戦的で、なかなかの扱いづらい妹の地位に納まっていました。
母は、今になっても相変わらず子ども3人の名前を言い間違えます。3人ともどもに手間がかかった子どもだったからでしょう。
そう言えば、いつから兄弟ゲンカしなくなったんでしょうね。

年子の妹がいると言うと、大抵のワタクシの友人の表情が変わり、不思議な質問をしてくるものですが、実際1.5年も離れており、普段はいつも後ろについてくるような、また学校では忘れ物をチョクチョク借りに来るような感じでしたので、良くも悪くも中学校までは一緒に育ってきたように思います。

高校生の頃まで続いた反抗期は、このまま一生涯続くのではないかと両親を心配させましたが、豊かな大学生活と恵まれた社会人生活のおかげと、また本人を支えていただいた多くの方のご支援があってのことでしょう、気付けば、ずいぶんと性格的に落ち着いて、家族に他所の人に優しい大人の女性になっていました。最近は、ずいぶんと気遣いもできて、誰からも親しまれ頼られる存在です。

そう言えばいつから口うるさかった母もあなたに寛容的になったんでしょうね。

Kは、頑張り屋さんです。
背が低いのもモノともせず、ミニバスケやテニス、バトミントンと言った運動系の部活動に参加し、ずいぶん熱心に取り組んでいました。
高校受験時には、周りがほとんど可能性ゼロで無理だと説得したにも関わらず、強気一点張りで第一志望校を強気で受験し、見事合格しました。 今日はそんな高校時代の友人も駆けつけてくれているようです。
大学受験時には、当時の一連のドタバタ劇は、もはやS家の伝説ですが、もう浪人かと諦めかけた最後最後のタイミング、誕生日祝いもそこそこに3月末につかみとった合格切符は、遠く離れた山口県の大学。2階の部屋にいた妹が思わず叫び声あげたのですが、こちらは、本人がついに発狂したかと思いました。まして、物理の授業も受けたことがないのに、電子基礎工学科に進むという、ずいんぶと無理をしたものだなと思います。

大学においては、40人数名の同級生のうち2-3人しか女性がいないという環境の中で、様々な誘惑や制約に負けることなく努力し、台風の被災にもめげず、優れた成績で大学を卒業。当時、就職氷河期の末期で、まだ新卒雇用の情勢も芳しくなかった時代、リクルートスーツを着て全国を駆け回り、大学で学んだことの延長上でキャリアをつかんだことは、父や母にとって、わがままな子どもから一人前の大人としてのターニングポイントだったと思います。大学紹介パンフレットにKさんが大学を代表する卒業生として幾度も掲載されたことは、当人にも大変な成果ある出来事だったでしょう。

脱線ついでに述べれば、S家で一番運が強いのもKであり、宝くじやイベントの抽選を当てたことがあったことも考えると、高校も大学も会社も、本人のド根性的な努力に思わず気を許した神の思し召しもあったに違いないと信じています。

社会人になって以来、両親のいないところで2人で繰り返し話題にしたのは、将来の結婚や家族像のことでした。妹の語る将来像は常に同じ、「父と母が築いたような家庭を自分も築きたい」と。フルタイムの共働きで子ども3人を育てあげてきた強き母と、寡黙ながらしっかりと家族を支えてきた父を、常に尊敬し、Kは、叶うならば自分も母のようになりたいと言っていたのです。

ちょうど6ヶ月前、都内のレストランでKから新郎のKくんを紹介されたとき、赤のネクタイをきちっと絞めて現れた好青年的な印象は、改めて、Kのある意味での粘り強さと素敵な旦那さんを見つける運命の強さを感じた次第です。

今日のこのような素晴らしい旅立ちの日にあたって、この場をお借りして非常に個人的なことばかり述べて大変恐縮であり、また当人のKさん自身も少し苦笑いかもしれませんが、兄に依頼してきた以上、これくらいのことは覚悟の上ではありましょう。

努力だけ運命だけではなかなか解決できない、複雑で困難な時代であるからこそ、ともに手を取り合い、物質の豊かさのみによらない、豊かな精神で幸せな家庭を築いていくことを願ってやみません。

なかなか人の言う事を聞かないところありますが、優しい旦那さんにいつまでも甘えられるよう、母やいろんな人の支えを素直に受け取りながら、素敵な奥さんになってください。

K君、どうぞ妹をよろしく頼みますね。

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