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Monday, February 14

安達地方第一の山

安達太良山の山頂@2/6
茨城県山岳連盟の冬山講習会に参加しました。
奇跡的に山頂では雲間が晴れたものの、総じて寒かった。。

くろがね小屋は、水道が凍っているのに、温泉は使える不思議。
小屋での夕食は名物のカレー、甘めで美味しかった。

夏沢鉱泉とくろがね小屋は、冬のお勧めコース、イチオシです。

Sunday, May 9

若葉のころ - 天城の記憶



ゴールデンウィークになると、実家が引っ越して間もない頃、自宅から桶ヶ谷沼まで父と妹で往復したことを思い出す。途中、見附の天神様をお参りし、沼では地元にしかいないベッコウトンボを見た。帰り道、路線バスに乗る乗らないではぐらからされながら、ツツジ公園により、どこかの古墳遺跡を発見し、かぶと塚公園では遊ぶ余力も無かったが、用水路沿いに南下して、結局、自宅まで歩いて帰った。

どれだけ歩いたかは覚えていないが、とにかく遠い道のりだった。まだ父が30代の頃である。

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今年還暦を迎える父に、どこか行きたいかと尋ねたところ、伊豆・天城への旅行を提案してきた。

天城峠を登ったところに僕の名を付けたくなった木(樹)があり、その先に妹の名を付けたくなった香り(薫)のいい木があり、その先で母に出会ったという。その先に、朝陽(暁)が美しいと想像した見晴らしの良い場所があり、弟の名もそこからきたと言う。

弟の話まで聞いて、そこまでは冗談だろうと思ったが、なるほど、天城峠から連想したとすれば、歳が離れて生まれた弟とはいえ、それは意味も血もつながっている。

その当時、バスに忘れたうっかりものの母の荷物を取りに戻ったという父。浪人・留年生とは付き合うつもりがなかったという母。未だに二人はよく喧嘩するようだが、さて、なんと表現したら良いものか。昔は何度も一緒に登ったという。

ん十年ぶりの久しぶりの登山だと言うので、すっかり油断していた。が、当日計画を開けてみれば、天城峠入り口から万二郎岳を越えてゴルフ場まで抜ける、コースタイム8時間の伊豆山稜線縦走コース。・・・・よくデートと言っては歩き周り続けて相方を泣かせたこともあったが、血は争えない。。

父は登山靴を履いてきたが、弟は底の薄いスニーカーだった。加えて3人ともジーンズ。途中すれ違うの登山者と見比べても、あまりに軽装備。コンビニで食料を買い込み、八丁池で母と合流して4人で登る。

その昔、両親がお世話になったという人が銅像になっていて、登山口の脇に立っていた。
山は少し痩せていて、木がひっくり返っているのが散見された。手を入れすぎているように思う。

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で、その樹はまだ立っていて、根を大きく張り巡らせていた。なんでまたこの木が父の心に留まったのだろうとは思ったが、まだ立っていた。それだけで十分だった。

家族での旅行は実に4年ぶりだった。身重の妹夫婦とは降り口で合流し、最後はみんなでゴールした。なんという大団円。

スニーカーでだった自分の靴には、穴が開いていた。
翌朝、母はイチゴ狩りにでかけ、父も仕事に出たと言う。
父はひざの痛みを隠していたらしいが、らしいと言えばらしい。
まだまだ若いなぁと思った。


いつか自分の子どもを連れて、ここを訪れる日がくるのだろう。たぶん、間違いなく。
今年もツツジが綺麗に咲いている。


写真 上: 登山口入り口(天城トンネル入り口バス停付近)
写真 下: 八丁池にて


Saturday, May 1

夜風の調べ - スリランカ



スリランカ本島から道の両端を海に挟まれた約3kmのコーズウェイを駆け抜け、緩く弧を描いた新しくできたばかりの橋を渡ると、インドに手が触れそうな、もっとも近い街、マナー(Mannar)に着く。

2010年3月に完成したばかりのコーズウェイとマナー橋は、日本政府の支援で整備された。

4月第3週目は、スリランカのお正月。第一週に行われた総選挙も無事に終わり、2期目のラジャパクサ政権は盤石の態勢を整えることになりそうだ。

周りを海に囲まれたマナーはいつも風がある。ひどい夕立のあった今夜は少しひんやりした空気が流れていく。心地良い。窓の外から大きなスピーカー音が一緒に流れ込んできた。静かな街にちょっと場違いのような音を立てている。どこかで祭りごとのイベントが行われているようだ。

さっき急に若い青年が二人きて、今夜の客が増えたからと、部屋が欲しいという。結局、2つあった方の1つのベットを持っていった。もともと不釣合いに広い部屋に2つのベットがあったようなものだから、余計間が抜けた感じになった。

部屋のエアコンは壊れていて、天井ファンが低い回転音をたてて回っている。風呂は水シャワーだけ。夕食はいつものカレーで、今日は檸檬、生姜、青唐辛子と椰子の実を混ぜたスパイスが添えられていた。やっぱり辛いけれど、食べられないヒリヒリする辛さでもない。暑さと辛さで毎日汗だくになっている。

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スリランカ政府と四半世紀以上も激しく対立したタミルイーラム解放のトラ(LTTE)が陥落してから一年経ったスリランカ北部州。賑やかさを取り戻し始めていて、去る1月に来たときよりも人の往来は激しく、道路沿いの市場にはたくさんのモノがあふれている。国道沿いには大型看板が増えていて、民間資本の投資意欲を感じさせる。

旧LTTE勢力に警戒し、未だ要所要所に塹壕を残して展開している軍人も、緊張感が無く、手を振ると振り返してきた。検問所では、職務質問の変わりに、家族構成やら婚姻状況を聞かれる。独身と
聞いて驚いた顔をされてもどうしようもなく、苦笑いで返す。

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さっきのスピーカーは、司会が客の笑いを取ろうしているのが聞こえる。窓の外をみれば、星がずいぶんと綺麗だ。月の光に街がうっすらと青白く照らされている。ほとんどの家の電気がついていないのが分かる。どこで夜祭りが行われているのだろう。一階からは子供の泣き声が響いてきた。

遠くのスピーカーも、平和を取り戻した人たちの歓喜と思えば、また印象が異なる。
夕立の大きな雷鳴に驚いていると、「夜中に飛び交う砲弾に比べたらなんてことはない」と政府職員が笑っていたのを思い出した。ここは昨年まで夜間外出禁止令が出ていたところだ。

マナー橋には、平和を灯す明りとして希望をこめて設計された水銀灯が設置されている。
設計当時、橋梁の安全対策をかねて持ち出されたアイデアであったが、建設予算削減のために、橋の両側につける計画を片側に変更した。

いまだ街の灯りの少ないマナー。今では一番のデートスポットとして、男女が集う場所になっている…と聞いたが、シャイなスリランカ人はホントはそんな姿を見せない。実際行ってみると、家族連れや若者たちでにぎわっていた。芝生が植えられた法面は、子供たちの滑り台になっている。笑顔と歓声があふれている。

遠くのスピーカーはいつの間にか民族音楽らしい、太鼓の音と女性の高い声に変わっていた。


写真上: 夕暮れ時のマナー橋にて。多くの見物者で、違法駐車ならぬ違法駐輪が発生していた。
写真下: 紛争中退避していた村に住民たちが帰ってきた。子供たちの歓声が響いていた。

Thursday, August 6

Tribute - Michel Jackson

まだ一ヶ月ぐらいしか経ってないのに、随分と前の出来事のように感じる。
改めてMichel JacksonのPromotion Videoを観ると、すごいなぁと思う。
今の時代でも画質を除いては、色褪せない力強さ、歌のメッセージ、ダンスも最高だ。
(Moon Walkはともかく、あんなにくるくる回っているとは思わなかった。)
7/1 WedのAmature Nightでは、MJ Tributeが行われた。New Yorkの125th通り、HarlemにあるApollo Theaterには多くの人が詰め掛けている。最後に残っていたチケットを窓口で買った。販売員に「おめでとう」と言われる。チケットを買えなかった後ろに並んでいた黒人女性がインタビューを受けていた。

Jackson 5から始まり、ずっとスターダムの頂点にいたMJ。このApollo Theaterでのデビューから彼の輝かしいキャリアが始まったそうだ。オバマと並んで、黒人スターを輩出した場として、再注目も浴びていると感じた。

満席の公演では、多数のメディア・報道人も詰め掛け、音楽記者と思われる人も観客席に入り込んでいる。なにやら異様な熱気に包まれていた。観覧客からの自己推薦によるMJパフォーマンスから始まり、MJ功績を振り返るShort Videoの上映が続く。子どもたちによるパフォーマンスは、将来のMJに期待して、Booing無しの心憎い演出。創作ダンス、手話バレエ、歌(シングル、デュエット)などなど、多彩な顔ぶれ。女の子が多かった。最近、Amature Nightから巣立った若手新人の歌もあり、MJに続けとばかりの演出が続く。
インターバル後の幕開けには、Thrillerのダンスパフォーマンス。地元の高校生によるものだろう。
いつものAmature Nightはここからが本番。容赦ないキックアウトもあれば、しっかり歌い切った人も。
遠慮の無さがいい。Booingする方がEnergyがいるように思えた。(手を叩いている方が実際は気楽。)

こういう盛り上げ方は、まさにアメリカ的だなぁと思った。
司会者の感傷的にならない、前向きでユーモアがあって、でも下品じゃない(上品でもないけど、ひねりの効いたコメントや突込みをいれたり)Tributeの運び方は、世の中の明るさ・MJ後の可能性、語り継ぐべきものを上手に魅せてくれる。
晩年のスキャンダルよりも、好意的に彼を取り上げていたのが、とても印象的で、今さらだけどすっかりMJのファンになって帰ってきたのだった。
もっとも、MJの逝去後、雨後のタケノコのように記念Tシャツやら、帽子やらCD、缶バッチ、ポスターなどなど、ありとあらゆるものが溢れて路上販売されていたのも逞しさを感じた。ついこの間まではオバマグッズで溢れていたものらしいけれど。オフィシャルグッズを示すためのホログラムシ-ルまで付いていたり。いつの間に手配したのか、どこからそんなものなのか・・・。調達時間を考えるとNY市内に生産拠点があると考えるのが自然で、この都市生産性(生産能力)は、ムンバイのダラビ地区に並ぶものがある。ムンバイとの違いそうした工場が、表立っては見えないところ。また興味をそそる点である。
並んでアイス屋も立っていて、熱気と暑さで飛ぶように売れていた。チェリー味のジェラートでは舌と唇が真っ赤になってたけれど、美味しかった。
Michel Jacksonの葬儀は盛大に行われ、そこで話題は一服した感がある。
7月に予定されていたロンドンO2公演はもちろん中止になったけれど、O2の周りでは彼を称える集会も行われたらしい。Life is still going on... すっかり話題にならなくなった時代の移り変わりの速さを感じつつも、彼ほどの話題を集める人物は今後そうそう現れないだろう。MJの安らかな眠りに合掌。

Wednesday, April 16

Heritage Wonder in Angkor

プノンペンからシェリムアップまでの道のり、7時発の水上ボートに乗ろうと、向かった船付き場は、出発時間も近いというのに、人がいない。
一年で一番気温の高いこの時期、乾季の終わりで水位が低いために運航休止だった。

飛行機で向かえばあっという間の距離も、あえて時間をかけて遺跡に辿り着く方法を選ぶ。休暇は始まったばかり。時間はたくさんある。ぱぱっと移動して世界遺産に到着するのでは味気ない。・・・・ということで、ピックアップトラックの荷台に乗って移動することにした。

運転手後ろの後部座席(いわゆる車内)という選択肢もあったが、しっかり荷台を選ぶ。
人や荷物が集まって、目的地に向かって出発していく。運転手が客らしき人を見つけては声をかけ、値段交渉をしていく。客もすぐには乗ろうとしない。どちらも交渉上手。そんなちょっとした駆け引きが、見ていて微笑ましい光景に映る。

1時間ほど待ったところで、シートに6人、荷台に8人+原付2台+自転車1台+隙間を埋め尽くさんばかりの荷物を載せて動き出した。

途中で帽子が吹っ飛んでいったが、農道を舗装したような2車線の道路を駆け抜けていく風は心地良かった。
なんとなくガーナの雰囲気に似ている風景は、人間の営みの色があった。

とはいえ、6時間かかった荷台ですっかり日に焼けてしまい、腕の日焼け跡のツートンカラーが眩しく、痛い。のぼせた頭で払った代金は、あとで数え直してみたら随分多かった。

シェリムアップで出会ったフランス人男性。
欧州、アメリカ、アフリカ、アジア、太平洋州、オセアニアなどなど世界中、35カ国を回ったという彼。

落ち着いた先が、カンボジアだった。カンボジアに滞留して3年目。
10ヶ月前からシェリムアップで小さな旅行会社を経営している。

そんな彼には、カンボジア人女性の奥さんと、4ヶ月の娘と2歳半の息子がいる。
お父さんはフランス語で、お母さんはクメール語で話しかける。夫婦の共通語は英語。

「なぜ、カンボジアなのか?」

生活が楽(easy life)だといった。
優しい人がいる。人が親しみやすい。声をかけてくれる。あいさつが返ってくる。
ストレスを感じない。外国人相手の強引さも少ない。自然があふれている、と。

いくつなんだい?尋ねられて、もうすぐ30になると答える。
僕はもう40なんだよ、自嘲気味に言った。

彼からすれば、40というのは、何かあっという間に歳を迎えてしまったようなニュアンスを感じた。
僕からすれば、30というのは、口先で言った以上に、彼の歳との意外な近さを感じた。
20からみれば遠かった40も、30からすると、すごく近い。でも40にしてもまだ若い。

あと5年くらいはいるかなぁ・・・と、この国に留まる決意は特に決めていないようだった。
なんとなくこのライフスタイルの緩い感じ。彼の周りで流れている時間の柔らかさを垣間見た気がした。

価値観は人それぞれだ。さて、自分は何を選択していくか。40までにどんな生活を立てているのだろうか。やりたいことはたくさんある。より良く生きたい欲は限りないが、そのスタイルの可能性は多様だと思った。

カブールと比較して、カンボジア人の生活は実に眩しかった。

Tuesday, February 26

Winter Excursions

いまさらながら先月末、エジプトに旅行していたことを白状する。


ルクソールに2泊、カイロに2泊。途中アレキサンドリアへ日帰り旅行。
ようやく写真をアップしたので、いつものあちらから。

カイロは大きな街だった。高層ビルもたくさん並んでいる。新しいビルは少なくて、古びたくすんだ色のビルが大概だが、人や車があふれ、雑踏に喧騒、大都会だった。

久しぶりに見る同僚たちの活躍ぶりに、「同じ会社でもこんなにも仕事の内容や生活環境が違うんだな」なんて違うところで感心した。協力隊の歓送迎会に紛れ込んでみたが、なんかうまく現実感が掴めなかった。

カイロに着いたその日のうちにルクソールに飛んで、空港で早速タクシーの運ちゃんと一悶着する。市内まで80だって。アホか。40でも高いぞと言ってやった。物凄く困った顔をする。じゃぁ35でどうかという。カイロの同僚には20でも十分と聞いていたので、話しにならん顔をする。じゃぁ幾らならいいんだ、っていってきてもまだこちらからは値段を言わない。30まで下げてきたところで、20でどうだって提示した。夜の到着だったし、と勝手に基準を緩めて、じゃぁ25で、ということで落ち着いた。でも話はここで収まらない。車に乗って動き出したところで25EGPね。と確認すると、25USドルだという。アホか。1EGP(エジプトポンド)=20円くらい。1USドル=120円。6倍も違うじゃないか、ふざけるな、ということで車を止めてくれと叫ぶ。まったくもって頭にきて空港に向かって戻ろうとすると、運ちゃんは車をバックしてそれでも客を乗せようとする。結局25EGPで合意した。(エジプトでの思い出において、なかなか強烈だったのは、それぞれの値段交渉であったのは言うまでもない。)

観光バス客の多いこの街において、ほとんど個人旅行客に会わなかったのは残念と言うか、どこでなにを間違えたのか分からなかったが、Lonely Planetおススメのレストランも閑散としていて静かなものだった。一日に借り切ったタクシーの運ちゃんと一緒に過ごした時間がほとんどだった。

車窓から見える緑の濃さ、一面に広がるサトウキビ畑。年間降水量が少ないこの町で、これだけ豊かな農耕が営める辺り、さすがナイルの恵みだと感じた。王家の谷でツタンカーメンのミイラに遭遇し、ぷらぷらと遺跡を歩き回り、年間3mmというルクソールの雨に遭ったり。ガイドブックどおりの事件にあったり、慣れないくせに虚勢張ってタバコ吸ってみたり。適当に楽しんでいた。

アレキサンドリアでは乗り遅れた列車に飛び乗った。末尾の機関室のおっちゃんが手を引っ張ってくれた。地中海に面するこの街は、欧州の雰囲気を漂わせ、路面電車が街のアクセントになっていた。思っていたより海風は強く、潮の香りは普通だった。イスラム教とキリスト教が歴史的に混在するエジプトにおいて、文化の融合というか文明の交差点みたいなものを垣間見た。神殿の奥に描かれた壁画とか、彫像とか。そこをそうくっつけるとアジア的になりそう、そんなものもあった。こうやって文化が交わっていくのかな、人間も進化していくのかな、そんなことを勝手に想像した。

話は飛ぶが、アフリカの文化も面白そうだと思った。ピラミッドができた古代文明から、奴隷貿易が栄えた時代までの歴史が吹っ飛んでいる。ピラミッド時代、アフリカの各地からいろいろな資材や資源がエジプトに持ち込まれたことを考えれば、アフリカ大陸のそこそこにそれぞれの文明があったことになる。そのような歴史はまだよく知らない。

エジプトといえば「強い陽射しの下、砂漠に浮かびあがるピラミッド」のイメージだったが、この時期は気温が低く、ダウンジャケットを着て行ってちょうど良いぐらいの、富士山5合目のような感覚。霧の中に包まれていたため、近くまで行って霧の中から急に現れたピラミッドの大きさに、結構たまげた。なかなか幻想的なピラミッドに出会うことができた。

中学生の頃、「ムー」という雑誌を読みながらピラミッドは宇宙人が作ったものだ、と想像していたものだったが、実際に近くで見ると、確かに人間が作ったという確信が、なぜか湧いてきた。きっと壮大な工事だったに違いないが、確かに人が作り出したものだと思った。

旅に出る間にいろいろあって、しばらく心が渇いていたので、潤しているうちにあっという間に過ぎた休日だった。いい意味で肩の力が抜けていたが、ちょっと抜けすぎていたか、結果的に夢のような旅。
世界遺産を巡るには相応の体力を備えないとなぁ、と反省したり。まぁこんな一人旅もありなんだろう。

http://picasaweb.google.co.jp/littletern/EgyptExcursion

Saturday, October 20

Pure Poetry in Marble

ファン音ばかりが大きい効きの悪いエアコンのせいでまとわり付くような湿気の中ようやく眠りついたと思った頃、部屋のインターフォンが高い音を鳴り響かせる。
まだ午前5時だ。
固いベットに枕がなかったせいか、頭の後ろがひどく重い感じがする。

気の早い迎えの車の運転手は、わざわざ部屋のドアをノックしてきて、出発の時間だと言う。いそいそと身支度を整える。
昨夜通りを埋めていたバザールも、ひとけがなく物売りの屋台もきれいに片付けられている。
日中はリキシャや大小さまざまなバスやタクシーが入り乱れ、クラクションや割り込みで忙しい道路も、まだ空いていた。
13番線まであるニューデリー駅。
夜も明けないうちから駅前広場やプラットホームは人でごった返している。
思ったほどの喧騒ではないが、行き交う人の波がそれぞれの目的の地へと足をさらっていく。
シャタブディ・エクスプレスは6:00を回った頃、1番ホームに滑り込んできた。
6:15、定刻通りに出発する。重い鉄塊のような車両がゴトゴトと動き出す。
目的地のアグラまではノンストップだ。時速120km近い速さで快適に進んでいく。
アグラ・カント駅ホームで待っていると言っていた迎えの運転手が見つからず、仕方なく客引きの声にでもついていこうと改札を出たところ、自分の名前が書かれたボードを持ったRaiさんに出会った。待ち合わせ場所が異なっていたらしい。
「ぜったいに物売りに止められてはいけない。声を掛けてくる人はみんな怪しい人だ。今日は僕があなたの運転手だから、僕以外の人についていってはいけない。みんなあなたのお金を狙っている。」
のっけからRaiさんから妙な忠告を受けつつ、DAEWOOの軽車両の助手席に乗りこみ、タージマハルに向かった。
チケット売り場と併設されたセキュリティーチェックの列を抜けて赤い石でできた門をくぐると敷地内に入れる。もう一つの赤い石の門をくぐると、あの左右対称の優美な姿をした建物が見えてきた。
大理石の白が、青い空に背景に鮮やかなコントラストを描いている。
あまりに眩しい姿だった。
噴水を配した幾何学模様の庭園が広がり、建物はすべて左右対照。
重厚な質感の大理石の建物に、壁面を飾る精巧な象嵌細工。
長い年月と歴史を経てなおそびえる続ける威風堂々としたタージ・マハルの、その頑強さ、完璧な美に圧倒されそうになる。
タージ・マハルはムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、先に他界した最愛の妃ムスターズ・マハルのために作った廟。タージ・マハルの裏にはヤムナー川が流れており、遠くアグラ城が見える。対岸にはのどかな草原が広がり、水牛が群れをなしていた。ムガル建築の最高傑作は、この建物が出来た当時から変わっていないだろう風景を残しているように思えた。
シメトリーの美しさに言葉がでない。
感動を言葉にできないから、その分写真にとどめようと思って黙々とシャッターを切り続けたが、途中で写真でも表現しきれない限界に気づき、庭園に腰をおろしてその姿にしばらく見惚れることにした。
タージ・マハルを離れ、次にアグラ城を見学。
肩を寄せ合うカップルがいた。女性の方は泣いているようだった。
視線の先にあったはずのタージ・マハルを眺めながら、二人はどんな言葉を交わしていたのか。
昼食はRaiさんおススメと言うインド料理屋で食べることに。ほとんど客がいない。値段が異常に高い。一人用のミールで500ルピー。完全に嵌められたと思いつつ、料理を待つと、その量は値段に正直で、3人前ぐらいあった。食べきれない・・・・。

噂がすべて現実になる点で、インド旅行は面白い国だと思う。ある意味で予想を裏切らない。
友人に聞いていた噂やガイドブックに書いてあった出来事が目の前で実現していく。

わずらわしい客引きや移動の際の値段交渉が面倒だと、前もってチャーターしたはずのドライバーでさえ、知り合いの店に連れ回そうとする。ショールだ、絨毯だ、貴金属だ、工芸品だ、とアフガンに流れてくるインド製品とさほど変わらないので、ますます興味は湧かなかったものの、次々と繰り出されるRaiさんの仕込みに愉快になり、とことんついていってやることにした。

いい加減自分の買う気がなさに諦めたのか、アグラの市街を離れ郊外のファティプールシクリに向かった。ファティプールシクリまでは結構な距離があって、往路復路でたわいもない話に花を咲かせていた。彼曰く、僕の財布は異常に固いのはなぜかと聞いてきたが、単にケチなんですよ。ここまでくるとお互い腹のうちを探らなくても良くなってきた。

20時発の帰りの列車にはまだ時間があって、Raiさんは車を止めて道端にあった屋台でチャイをごちそうしてくれた。甘くて香りの強い飲み物だった。自分が旨そうに飲んでいるのをみて、もう一杯ごちそうしてくれた。外国人珍しさに寄ってきた少年と時間をつぶしていると、ちょっと待ってろと言って、Raiさんはどこかに行ってしまった。まさか置いていかれたのではあるまいな、と疑心暗鬼になりかけたが、TajMahalと書かれたパッケージの紅茶を一つ持ってきた。僕へのお土産ということらしい。

インド人も複雑・・。こういうことをされてしまうと、嫌いにはなれない。訪問先のしつこい勧誘や物売りとの気の抜けない心理戦が展開されたような旅行にも感じたが、素直に受けとり直してみれば、相手も生活があってのことだから、押し付けがましい営業も、物売りもみんなみんな生きるための必然なのかも知れない。人があふれかえっているこの国で、もの静かに生きようとしても、そんな生き方ができるのは一部の裕福な人に限られるのではないかと。

アグラ・カント駅での待ち中、絵葉書を書いていると、立て続けに停電が起きた。インドとは言え、停電になることが何だか新鮮な感じを受ける。基本インフラは意外としっかりしていると思ったからだ。(デリー市内には、日本の資金協力で作られた地下鉄も走っている。)

デリーへの帰路は、ある日本人の青年と一緒になった。
彼曰く、アグラで宝石ビジネスを紹介されたらしい。ここで買った宝石を日本の指定のお店に持っていけば高く買い取ってくれるのだと。暑さで思考能力が低下し、相手の親切で丁寧な対応振りにクレジットカードを出してしまった。分かっているなら、断ればいいのに、断れなかったらしい。幸いにもカードが決裁できなくて、結局ビジネスは完了できなかったということだが、どこまでも期待を裏切らないネタ満載の国だと思った。

色んな感情や思いが交錯して疲れたためか、ホテルに帰り着いた途端に眠りに落ちた。
毎日汗だくになって歩き回って疲れた果てたが、「これぞインド!」という場面に一杯出くわし、けれどお腹を壊すことなく、熱いインドを体感してきた旅行だった。
好き嫌いがはっきり分かれるというインドだが、また折り見て違う都市を回ってみたいと思う。
(インド旅行:デリー・アグラ、9/8-11)

Friday, June 1

屋久島に行ってきました♪

土産物屋の定番商品そのものでありますが、5/15-21で屋久島に旅してきました。

何を期待していったのか忘れてしまうほど、緑濃い自然の中で、感動あり、出会いあり、楽しい発見ありの1週間を過ごしてきた。(帰りはいきおい余って、大宰府天満宮を参拝)

行きは飛行機(名古屋→鹿児島→屋久島)で、帰りは船(ロケット)と陸路(九州→山陽→東海道新幹線)で。

メインイベントは、
宮之浦岳単独縦走(淀川口→黒味岳→栗生岳→宮之浦岳→新高塚小屋(泊)→縄文杉→太鼓岩→白谷雲水峡)、
地元ツアー(おススメ→http://www.ynac.com/index.html)に参加してのリバーカヤックと沢登り!
オプションで、星空観察(流れ星3つ!)と屋久島環境文化村センターでのシンフォニー映画の鑑賞。
時間があったら、海がめの観察もしたかったところ・・・。

GW明けの平日の週に行ったので、対外空いているかと思ったが、意外と人がいて多少たじろぐ。
宿泊先は、素泊まりの安宿(なぜか予約が入ってなかった)に、山小屋(なぜか17人も泊まっていた)、宮之浦ユースホステル(週末は予約一杯になり宿を変える羽目に。)等に泊まった。
海外での一人旅より、言葉のストレスを感じない分、出会った人や行き違った人たちと気さくに交流ができて、そんな時間がとても楽しかった。

何より楽しかったのが、宮之浦YHでの「三岳タイム」。
YHでは、屋久島の地焼酎「三岳」を肴に、20時から22時まで、談話室で語り合う時間がセットされている。どんな人が来るんだろうか、と考える前に、同室になった仲間と意気投合して、名焼酎を堪能する気分満々で参加。勝手に飲み始めていたら、次から次にこれまた濃いメンバーがそろって、愉快な時間を過ごせた。ウクレレ、良かったなぁ。

トビウオ、首折れさば、水イカ、亀の手(という名の貝)、屋久イモ、生サバ節、名前の分からない刺身をあったが、食べ物も完璧。
何を食べても旨かったし、一緒に呑む友だちもできたので、美味しさ倍増。

普段は山ばかりであったが、今回はsurfaceのウォータースポーツにも挑戦。
まだ若干水は冷たかったが初のリバーカヤックも楽しくて、のんびりした味わい深い時間だった。
沢登りも、登り進めるにつれてテンション上がりっぱなし。癖になりそう。帰ってきて、さっそく浜松のフリークライミングに行った程だ。

屋久島の大自然の緑を気持ちよく堪能し、雨にも打たれ、いろんな人とも出会い、3,000年の歴史ならぬ、3,000年超の大自然の深みに、思わずはまりかけている。

写真はコチラ→http://picasaweb.google.com/littletern/InYakushima

Monday, January 29

みちのむこう

年明け早々、オーストリア国内のハンガリーとの国境に近い小さな町"Stadtschlaining"にて「平和構築」研修に参加した。
“International Civilian Peace-Keeping and Peace-Building Training Program"というコースで、講義と実習、シュミレーションを組み合わせて構成された2週間のプログラム。


参加者は世界各地からスーダンやルワンダ、ガーナ、エリトリア、パキスタン、パレスティナ、アフガン、オーストリア、フィンランド、イギリスなどなど25名、途上国からの参加者には奨学金が付いていた。


紛争現場から来ている人(NGO、国際機関スタッフ)もいれば、これから平和構築の現場に参加したいという人(スキルアップ中、求職中)もいて、参加者間のバックグラウンドや課題意識は様々であった。


自分自身の「いま抱えている問題を参加者間で共有して何らかの課題整理を」という期待は外れたものの、政府系援助機関とは違った視点からの問題意識、いまの仕事に対する他者の視点を知ることで学ぶところは多かった。


会場となった町は、かつて東欧と西欧を分断する境界に位置していたことから、旧東欧諸国の欧州再統合とボスニアヘルツェゴビナ問題へのEU/NATO/OSCEのアプローチを教訓とし平和へのアプローチを学ぶ場として選ばれ、"Austrian Study Center for Peace and Conflict Resolution"が設置されているところである。


欧州は体系立った理論形成がやはり上手くてさすがだ、と感じさせる講義内容であったが、他方、現場における理論の実践についての検証が、講義では十分にカバーしていなかったのが不満であった。
理論は分かる。でも現実問題としてうまくいっていないのはなぜだぁ~、と問い詰めたいところだった。
各講師に対しては、現場経験者からのコメントがぶつけられるが、どうもこれらも自分たちにとっての特有の問題は・・・という話しぶりで、最初は面白かったが、途中から似たような方向性で飽きてしまった。理論と現場の乖離をどう考えるかが大事とは思いつつ、各事由の固有の問題も大きすぎて、一般化して経験を共有しづらいところも頭が痛いところである。(ということは、アフガン担当者は今後も社内でアフガン担当??・・・・というのは避けたいところ。地域性よりも課題別アプローチの方が自分の性に合っている気がする。)

授業後のBARタイムがディスカッションの場となった。
個人的には、「CIMIC(軍民協力)」のコマが興味深かった。
緊急復興および治安の安定しない初期の復興支援において、自分で自分の安全を確保しながらインフラのリハビリができる実施能力は、有効な手段の一つと考えている。軍と民間を結び有効なアプローチを模索していこうという考えが生まれたのは、軍側だったそうだ。あまり知られていないが、イラクにおけるサマーワにおける自衛隊の活動は、日本によるCMICの先駆事例と言える。
防衛省に格上げとなって国際貢献が活動項目に位置づけられた日本の自衛隊。アフガンに派遣される日は近いのだろうか・・・?(草の根テロ活動の多いアフガンでは、無傷ではいられないと思うが。)

EUの人たちと直接話す機会があったのも貴重な体験であった。進化し続けるEUと経済統合のダイナミズムをそこに生きる人たちがどう考えているのか、何を感じているのかを少し触れることができた。今回の参加者は特に外に出て行って貢献したいという人たちの集団であったこともあるが、統合のダイナミズムに揺れるキャリア形成やパートナー、価値観に対し、たくさんの刺激と考えるきっかけを与えたられた。なんというか、もっともっとエネルギッシュに生きなくては!と思った次第です。均質な日本とは全然違う、意外と地味なんだけど大きなうねりを感じさせるEU。面白い。今後の発展に巻き込まれてもいいかなとも思った。

多国籍職員で構成される国連は日々が異文化コミュニケーションで、他人に寛容な分、無駄も多いといわれる。他民族で構成されるEUも、毎日の生活が異文化コミュニケーション。
援助の世界でのトレードコストの高さは非難されるべきものであるが、EUにおけるトレードコストが生み出す動態に、EUの潜在的発展性がありそう。無駄さ加減の中で、様々な調和が新しさを生んでいると思いたい。(実際には骨の折れることだとは思うけど、その中で育った若い世代は、間違いなく次世代型価値観を見につけているはず。)

平和構築研修で、すっかり平和ボケの毎日であったが、気分転換にも良かった。
まだまだやれること、やるべきことは多いなぁと気合を入れなおしつつ、
帰ってくるなり山積していた仕事を前にして、一気に現実モード。(というか年度末モード?)

机の上には、オーストリアから出した自分宛の葉書がもう届いていた。

Saturday, December 16

In Flight Scene

大学時代の友人で、国内線の飛行機でたまたま乗り合わせた隣の席の人と結婚したというエピソードがあるが、きっかけは自分が持ち合わせた落雁だったと言う。

「お一ついかがですか」って。

飛行機に乗るときは、大抵隣の人が居ないと、気分的に楽である。

昼間に到着する便を利用するときは、空からの風景を撮りたくて窓側に。
夜間に到着する便を利用するときは、トイレに邪魔されたくないので、やはり窓側に。
隣に人がいなくて、横になることができるシートを、「Leg Stretch Sheet」と言う。
少々行儀は悪いが、やはり横になって寝られると睡眠の質が違う。

たまにビジネスシートに乗る機会があっても、この歳でビジネスに乗ると周りの人に気後れして、逆に落ち着かない。隣になった人に必ず何かと話題を振られるのだが、仕事の話になると説明に困るし。

隣にどんな人が座るのか、いないのか、というのはいつもながら無駄に期待と緊張するものである。
今年5回目となったイスラマ-バンコク間のフライト。
こんなことがあった。

イスラマの空港で搭乗待ちをしていると、とある親子連れと遭遇した。

写真の彼はカブール生まれのH君、12歳。
3人兄弟の長男で、次男、三男がお兄さんの後ろから僕のほうを伺っている。
最近覚え始めたダリ語で声をかけてみると、英語で返してきた。

今日のために英語を勉強していたという。
これからバンコクを経由して、オーストラリアのバースに行くという。
そこでお父さんが待っている。
お母さんは29歳。16歳で結婚したのか、ふと自分と比較して想像する。

お父さんは職を求めて2年前にオーストラリアに渡った。
いまビルの清掃を仕事としている。

H君はある袋を下げていた。中には写真つきの書類が入っている。
袋には白地に紺青色で「IMO」と書いてある。書類は移住許可書であった。
そう、彼らはオーストラリアに移住するのである。

IMO(=International Migration Organization)の支援で移住する家族に遭遇したのはこれが初めてではないが、今まさにアフガンを離れ移住しようとする一つの家族を前にして、しばし考えるものがあった。
他にも2家族くらいいたが、表情に緊張の様子が読み取れた。

ダリ語を話せる自分に好奇の眼差しのH君に答えるように、自分がカブールで働いていることを話すと、彼ら兄弟の表情がパッと明るくなった。なんだかすぐに友だちのようになった。カバンを探って、飴玉を取り出す。H君に渡す。「もらっていいの?」と聞き返してくる。礼儀のあるしっかりした子だと思う。彼なら大丈夫だろうと勝手にこれからの生活を想像する。友人には申し訳ないが、投函し切れずに手許に残していた絵葉書を彼に差し出す。いつかアフガンを思い出す機会になれば祈りつつ。

搭乗の時間を知らせるアナウンスが響く。
H君と弟はお母さんを他所に、僕についてきた。
お母さんの言うことを聞かなくては駄目だよ、と促しながら、いつの間にか家族5人となって一緒に飛行機に向かう。

大きな機体に嬉しくなったH君は、勢いよく先にタラップを上っていった。入り口まで着いて、お母さんがついて来ていないことに気付き、逆流して降りてくる。やはりまだ子どもだ。

自分でも驚いたことに、機内では一緒の席の並びであった。
真ん中4列シートに僕とH君、3男、お母さん、通路を挟んで次男だった。

機内では母校での講演の資料を仕上げる予定であったが、それどころではなくなって、シートベルトのつけ方からヘッドホンのセット、ジュースに機内食のお手伝いと、にわかに家族旅行。まぁなんとも楽しかった。

日本の自動車が好きだというH君、オーストラリアでは学校に通えるとのこと。
アフガンでの生活ができなくなったことが残念だと、言う。見かけ以上にませた子だなぁと思いながら、それでもいつか帰りたいと言っていた。
いつの日か安心して暮らせる日がくれば。早く実現させてあげたいと、歯がゆく思う。

深夜11時過ぎのフライト、僕もH君も気分が高揚しているのか、なかなか寝付けず、隣では3男がお母さんに対してぐずっている。無理もない。
アフガン人に対する諸外国の出入国検査は、いかなる理由であっても厳しい。
機内でもショールを頭に被せたままのお母さんの表情から、疲労が垣間見えた。

H君と日本の車やいろいろと話をしているうちに、いつの間にか2人とも寝入っていた。 隣を見ると、狭い座席に折り重なるようにH君と3男、お母さんが寝ている。

飛行機は予定通りバンコク国際空港に到着した。

乗り換え場所まで送って行こうかなと思ったが、ゲートでIMOの職員が待っていて、急かされるように彼らは去っていった。H君も、寝起きですっかり僕のことを忘れたのか、振り返ることなく行ってしまった。次の乗り換えまで16時間あるというのに。
「ホダフェス(ダリ語で「さようなら」=神のご加護を)」と言えなかったのがちょっとした心残りだった。

「お兄ちゃんなんだから、お母さんを支えていかなくては駄目だよ」と言った約束、
ちゃんと守っているかなぁ。
今ごろ彼はお父さんの腕の中でどんな話をしているのだろうか。

Saturday, October 21

Bamiyan, Bamiyan,

出張の機会を得て、前々から一度行きたくて仕方のなかったバーミヤンを訪れた。

バーミヤンといえば、カブールの北西に位置する街で、アフガニスタンを代表する観光資源を有する古代遺跡群と渓谷の自然景観が有名。
2001年のタリバン政権末期に大仏が爆破されて、世界のニュースとして注目されたことが記憶に新しい。

ちょうど都市開発省大臣のイニシアティブで、ユネスコ「世界遺産」にふさわしい街としての「都市開発」を・・・・という壮大な構想が描かれ始めたので、どんな街なのかと期待していたが、何のことはない、「村落開発」という言葉がぴったりの田舎町であった。

空港滑走路が舗装されていないばかりか、市内道路で舗装が為されているところは100mもない。市内電気の供給もなくて、当然水道はなく、まさに石器時代・・・。

裕福な家庭では、プロパンガスや自家発電を使っているようであったが、夜は文字通り真っ暗闇になる。
石窟仏教寺院は、大仏の跡形も無く、また略奪や破壊にあってか、ほとんど見る影も無い。つい最近10月初めに日本チームが新たに発見したという仏教壁画は、これ以上の損失を防ぐためか、石窟にはめ込み扉が設置され、人が入れないように保護されていた。断崖に掘り込まれた仏堂が残っている。「そこに確かにあった」という偉観が迫る。宿(その名もRoof Top of Bamiyan)の位置する高台から飽きるともなく何度も眺めていたが、何だか不思議な実感だった。

バーミヤンは多民族国家アフガニスタンの主要民族のひとつであるハザラ人の居住地帯(通称ハザラジャート)の一角で、日本人に近い顔立ちをしているせいか、街行く人とも特別の親しみを感じる。石窟前ですれ違ったハザラ人と思わしき人に声を掛けたら、なんと日本人大学生の一人旅であった。
石窟大仏は東西に二つ(西が男性で、東が女性)、その間にもう一つ(子)と呼ばれる大仏跡があった。東のほうの近くには、洞窟で人が暮らしているのも見られた。

バーミヤン渓谷の自然景観では、なんと言ってもバンダミール湖が素晴らしかった。
こちらはあまり知られていないが、見事としか言いようがない。深く蒼々と湛えた水は、透明度が高く、どこまでも吸い込まれそうだった。
鍾乳洞にみられる有名な景観「テーブル」のような形をしている湖である。

ところかわって、少し仕事のはなし。
バーミヤン地方のようなところでは、中央政府の行政組織が機能していない。
そのためアフガン政府に代わってNGOによって地方クリニック(診療所)が運営されており、バーミヤン州病院は、アガカーン財団の支援よって医療サービスが提供されていた。年間運営費はおよそ1万ドルに達する。

ここまでのNGOの力(資金力、人材力)は、なかなかお目にかかることはできないが、行政サービスの代行を担っている現場を実際に見るに付け、復興支援における行政サービスの再構築という視点から、大変興味深い手法であると感じた。

ちなみに、アメリカの公的援助団体であるUSAIDは、年間800百万ドルを投入して同様の地方医療施設(BHC/CHC)の支援をNGO委託により実施している。
援助の面的展開という点で、アメリカの影響力は他団体を規模・量ともに圧倒する。USAIDによる復興支援の地方展開においては、援助効果の継続性(地方政府がドナーの支援終了後も自前で維持できるか)という点よりも、緊急性という観点から支援を展開しており、援助の継続性以前の問題として、平和構築期における地方の安定を確保することに注力している。今の日本では、まず真似できない援助手法である。
その代わり、国内人材直接派遣型(専門家派遣)において実績のある日本は、政策アドバイザー等の配置による中央政府の立て直し(予算計画、調達、人材育成)に強みがある。うちから攻めるべし、と言ったところだろうか。

おまけ:
夜には宿の屋上に毛布とじゅうたんを敷いて、UnderStarSleepingをやってみた。持参したフリースを着ていても寒く、息も白く、さすがに外で寝ることはなかったが、見事な天の川だった。
3泊4日の日程、飽きずに3日間とも宙を眺めて、計12個の流れ星が見られた。

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