Saturday, July 7

Cafe Godot

歳の割に落ち着いて見えると言われることがある。
2年前は32歳既婚、子ども2人というイメージで言われたが、最近は34歳既婚と言われる。先日の出張先でのアフガン人にも似たようなイメージで言われた。
毎年着実に歳を食っているものの、歳相応にはまだまだ届かないらしい。

29歳になった。

先々月、帰国して再開した同級生とは初めて知り会った日から14年ぶりだった。
29歳の自分にとって、14年の差は人生の半分に相当するという事実に、いささか面食らった。
ただはじめの14年間の記憶と言うのは、ほとんど無自覚に経験した時間であり、次の14年間は自覚的に自分自身と向き合いながら生きてきた時間であり、笑いながら泣きながら悩みながら流されながら、今の自分を感じつつ、毎年去年よりもどれほど前に進めたのだろうかと、自問する。
振りかえってみるに、20代はじめの5年間とその後の5年間は、均一の時間量であっても、はじめの5年間はゆっくりと、その後の5年間はあっという間に過ぎていった。
時にいま制約の大きい生活環境に身を置いている中で、日々、普通のことを淡々と反復する生活を送っているという意識は一層強いのだけれど、そういった毎日の小さな行為の積み重ねが、いまの自分を成立させている。けれども1年という時間の感覚は、歳を追うごとに小さな差異となりつつある。
そんな小さな差異のなかで、どれほど自分は成長できているのか。

今の自分は、息せき切って現在を駆り、未来に向けて前傾姿勢をとっているように見えて、実は未来を視野に入れていない。不確かな未来というものの訪れを待ち受けるということをせず、いったん決めたものの枠内で一刻も早くその決着を見ようとする。待っているのは未来ではない、ちょっと前に決めたことの自分が想定した結末。待つということに不寛容な自分がいる。

意のままにならないもの、どうしようもないもの、じっとしているしかないもの、偶然を待つ、自分を超えたものにつきしたがう、時が満ちる、機が熟すのを待つ。待ち遠しくて、待ちかまえ、待ち伏せて、待ちあぐねて、とうとう待ちぼうけ、待ちこがれ、待ちわびて、待ちかね、待ちきれなくて、待ちくたびれ、待ち明かして、ついに待ちぼうけ。待てど暮らせど、待ちびと来たらず・・・・。待つことが待つことである保証がないまま、あてどもなく、ただひたすら待つ。(待つということ/鷲田清一)

仕事や休暇や旅行といった、向かった先々で他者の時間と交差し、そこに無数の小さな波紋が生まれ、時に大きなうねりを形成する。日々の無数の波紋が、共鳴し、新たな接点を生み、岸では、それが寄せては返す波のように、自分を揺さぶってくる。また、ともに同じ出会えたことを喜び、酒を飲み、同じ時を生きていた人たちの、異なった経験を聞くことがとても楽しい。その波紋に応えるともなく応え、やり過ごすなかで、ふと気づけば時が流れ、また一つ経験と言う層を重ねていく。この一年、またいい出会いがあった。

去年定めた目標は、なんとなく過去の積み重ねもうまく作用した部分もあって曲がりなりにも進んできたけれど、残りは更なる努力と時に待つことの寛容さが必要。期待するけど、期待しない。
気まぐれな結果ではなく、自分の行為の積み重ねの先に、30代のスタートが用意されているように。
the Best is always yet to be!

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